みかんの執事

みかん執事のひとり言。

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徳川家康の前に立ち塞がり、最も苦しめた真田一族とは!

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死をも恐れぬ六文銭の旗印の下に戦国時代を生き、武田信玄織田信長豊臣秀吉などの武将を渡り歩きました。

秀吉亡き後は実権を握ろうと目論む徳川家康の前に立ち塞がり、親子にわたり家康を苦しめ、恐れさせたのが真田家です。

今回は、私が住む和歌山県にも関わりがある真田家について紹介していきます。

 

真田家とは?

信濃(現在の長野県)出身の氏族で、甲斐(現在の山梨県)の武田家に仕えました。

その後武田家が滅亡すると、織田軍に組み込まれます。

本能寺の変」で信長が倒されると独立し、甲斐•信濃といった旧武田領の情勢が不安定となった地域を、近隣諸国の大名達(徳川家康上杉景勝北条氏直)らと旧武田領を巡り熾烈な争奪戦となります。

真田昌幸は旧武田家臣達を味方につけ、ライバル大名達との同盟と裏切りを繰り返しながら、最終的に昌幸は上杉景勝と手を結び、上杉と同盟関係にある豊臣秀吉の家臣となり、真田領(長野県上田市から群馬県沼田市にわたる地域)が認められました。

以後、豊臣家の家臣として仕え、「関ヶ原の戦い」や「大坂冬•夏の陣」も豊臣方として戦ったのです。

戦国時代屈指の策略家、真田昌幸

豊臣秀吉に「表裏比興の者」と称されたほど、策略と状況判断力に優れた名将です。

武田信玄の家臣である真田家の三男として生まれます。

7才の頃に武田家へ人質として入り、やがて武田信玄の奥近皆衆に抜擢されます。(幹部候補生みたいなもの)

やがて頭角を表し武田家の重臣となり、信玄•勝頼の親子二代に家臣として仕えました。

やがて武田家滅亡の後、織田信長の軍勢に組み込まれて織田信長に追付しました。

織田信長が「本能寺の変」で自害すると独立し、空白地帯とされた甲斐•信濃•上野の旧武田領域の争奪戦が始まります。

上杉•北条•徳川の有力大名達にを相手に昌幸も参戦します。

もともと信濃•上野地域は昌幸が武田家から管理を任されていた地域ですので、旧武田家の家臣達の協力もあり、真田軍が奪還します。

そして、上杉•徳川•北条の各有力大名達との接近と裏切りを繰り返して、領土を死守します。

とりわけ徳川家康とは因縁があり、上田城にて、一次•二次と2回対戦し、いずれも戦力的にも圧倒的不利な状況のなかで勝利しています。

やがて豊臣秀吉の家臣となり、大名として認めてもらいます。

秀吉亡き後も豊臣家の家臣として「関ヶ原の戦い」では西軍として戦っています。

関ヶ原の戦い」では真田討伐に向かった徳川秀忠上田城で迎え討ち、巧みな戦術で徳川軍を翻弄し、秀忠軍の足止めに成功しています。

しかし、肝心の「関ヶ原の戦い」では西軍が負けてしまったので、勝利した家康は昌幸と二男信繁に死罪を申し付けるが、東軍についた息子の信之や本多忠勝らの嘆願により死罪を免れ、息子信繁と共に九度山和歌山県九度山町)に蟄居となりその地で生涯を終えました。

真田信之(信幸)

真田昌幸の息子であり長男。

父、昌幸のインパクトが強すぎて、見落としがちですが、数々の武功と藩政においての統率力など文武兼ね備えた名君です。

父の昌幸や弟の信繁と共に上杉•徳川•北条を相手に戦います。

武将としても優秀で、戦では数々の武功をたてます。

関ヶ原の戦い」では、父昌幸や弟信繁とは袂を別ち、東軍である徳川側につきます。(第二次上田合戦にも参加するが、父や弟とは直接対決にはならずにすんだ)

自身が参加した東軍が勝利するも、敵側についた父と弟は家康によって死罪を申し付けられますが、自身や義父である本多忠勝の嘆願により死罪から免れ、九度山に蟄居となる減刑が許されました。

後に徳川幕府時代には、13万石の松代藩主となる。

真田信繁(幸村)

真田幸村の名前で世に知られています。

父昌幸とともに「関ヶ原の戦い」では西軍につき、敗れはしたが後の「大坂の陣」では非常に大きな働きをし、家康本陣に二度も攻め込んだ猛将です。

真田幸村で有名に?

本名は真田信繁であります。信繁に関する史料を見ても、幸村と表記されたものはありません。

幸村に関しては、後に1672年(寛文12年)に刊行された軍記物「難波戦記」で信繁が幸村の名で登場しています。その後に刊行された幾つかの軍記物でも信繁が幸村として描かれ、「講談」の演目などで披露されて人気を博しました。

妖刀「村正」

室町時代に活躍した刀工。「千子村正」の名で知られている名刀です。

「斬味凄絶無比」として名高く、戦国武将達に愛用され、真田信繁も愛刀としていました。

妖刀「村正」としての由来は、徳川家康の祖父•父•息子•妻の死に関わっいた刀が「村正」であり、「大坂夏の陣」で自身をあと一歩の所まで追い詰めた真田信繁が愛用したのも「村正」でした。

そういった背景から家康は名刀「村正」を忌み嫌い封印したと言う逸話がありますが、これもまた、信繁の「幸村」と同じく後に刊行された文芸によるものであり、信憑性に欠けています。

犬伏の別れ

1600年(慶長5年)七月「関ヶ原の戦い」を前に、下野犬伏(栃木県佐野市)の薬師堂にて昌幸・伸之・信繁の親子3人での話し合い(密会)が行われ、昌幸は妻であり信之•信繁の生母である山手殿は西軍の将である石田三成の妻の皎月院と姉妹である事から西軍につき(昌幸は家康が嫌いである)信之の妻は徳川家の重臣である本多忠勝の娘である事から東軍に、信繁の妻は豊臣家重臣である大谷吉継の娘であるので西軍につく事となり、真田家存続とお互いの筋を通す意味でそれぞれ袂を別つのである。

関ヶ原の戦い」の後の真田家

敗れた西軍方であった昌幸と信繁は家康から死罪を申しつけられますが、長男信之や本多忠勝らの嘆願により助命され、紀州九度山和歌山県九度山町)に蟄居させられました。

慶長16年(1611年)昌幸は九度山にて病死します。

大坂冬の陣

慶長19年(1614)徳川家と豊臣家の関係が悪化し、兵力に劣る豊臣家が浪人を集め出し、九度山の信繁の所にも召集の使者が訪れ、信繁は九度山から脱出し、豊臣家の軍勢に加わります。

作戦会議で信繁は京都、滋賀まで攻め入り幕府軍を迎え撃つ案を主張しましたが却下され、大坂城にて迎え撃つ籠城作戦が採用されました。

信繁は大坂城の弱所である三の丸南側付近に土づくりの出城「真田丸」を築いて徹底抗戦し、攻め込む敵を撃破して真田信繁の名を天下に知らしめました。

老獪な家康は、「大坂冬の陣」の後の講和の取り決めから、大坂城の堀を埋める際に真田丸も取り壊させました。それに加え豊臣側の切り崩しを図り、信繁が幕府側に寝返るように信繁の叔父である真田信伊に2度に渡り説得させますが、信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか!」と怒り信伊に合わずに帰したと言います。

大坂夏の陣

慶長20年(1615年)豊臣家を滅ぼしたいと考える家康は豊臣家に難癖をつけ、和平が決裂すると再び大坂に向けて出陣しました。

信繁ら豊臣側は大坂城の堀と真田丸を失っていたので、籠城戦では勝ち目がなく、野外戦に望みをかけました。

真田隊は善戦しましたが、豊臣側には勝ち目はなく、信繁は「武運堀き」と嘆き死を覚悟したと言われます。

天王寺の戦いでは、決死の覚悟を決めた信繁と真田隊は怒涛のごとく二度にわたり家康本陣まで攻め込み、この時ばかりは家康も自害を覚悟したと伝えられています。

信繁は家康に肉薄しましたが最終的に幕府側の兵の数に押されて撤退します。撤退途中傷ついた体を癒すために四天王寺近くの安居神社の境内で休んでいる所を幕府側である越前松平隊に見つかり、討ち取られました。享年49才でした。

まとめ

動乱の戦国時代を生きた昌幸、いち早く昌幸の才能を見抜き登用し成長させたのは武田信玄でした。

武田家は織田信長によって滅ぼされ、昌幸は織田軍に組み込まれますが、ほどなくして織田信長が本能寺で倒されると、昌幸は旧武田領を旧武田の家臣達と奪還します。

その後の、上杉・徳川・北条との戦いや豊臣秀吉についた事などは、旧武田領を死守するためであり、かつての君主である武田信玄・勝頼親子に対する義理を果たしたのでは無いでしょうか。

徳川家康とはそりが合わずに対立しますが、お互いどうしても好きにはなれなかったのでしょう。

関ヶ原の戦い」で西軍が敗れ九度山に蟄居させられますが、九度山での生活を金銭面で支えたのは、東軍についた息子の伸之や紀州藩主の浅野幸長でした。

九度山での生活の中でも再び大名に返り咲く事を考えて、数々の書状を知人達に宛てていたそうですが、晩年はその気力も無く病に倒れ九度山で生涯を終えました。

昌幸が亡くなり、九度山でくすぶっていた信繁ですが、徳川との関係が悪化した豊臣家の要請で、九度山を抜け出して豊臣軍に合流します。

やがて、戦となり戦場に復帰した信繁は、水を得た魚のように大活躍します。

大坂冬の陣」の和睦後、徳川幕府側による豊臣側の切り崩し工作により、領地を与える引換えとして寝返るように説得されますが、信繁は「秀頼様には拾ってもらった恩義がある」として徳川幕府側の話に耳を貸さなかったのです。

そうゆう意地や義理を重んじる所が真田親子の魅力であり、家臣や歴史ファンを引きつけるのではないでしょうか?

一方の伸之にしても、父や弟の死罪を助け金銭面でも支えました。自身が統治する領地も浅間山の噴火などの自然災害にみまわれ、民の救済や復興に尽力しました。

民から慕われ、伸之が亡くなった時には、出家する者が多かったと言われています。

私が住む和歌山県九度山町では、かつて昌幸らが暮らした居住跡に善名称院というお寺(真田庵)が建てられ、昌幸・信繁など真田一族が祭られ、五月七日の信繁の命日に近いゴールデンウィークには、「真田祭り」を開催して昌幸・信繁親子を偲んでいます。

今回は、私の暮らす和歌山県のもゆかりがあり、数々の逸話から歴史ファンを引きつける真田一族についての紹介でした。

今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。