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藤原氏史上最高の名主!藤原不比等

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日本の歴史上、1400年以上の歴史を持ち、最も栄華を極めたのが藤原氏です。

摂政、関白などを歴任し、日本の政治や天皇家などと大きく関わってきました。

日本の歴史を語る上で必ず登場する藤原氏ですが、今回は藤原氏が、栄える基礎を作った人物である藤原不比等にスポットを当てて見ました。

 

藤原氏の原点

藤原氏の始祖である中臣鎌足中大兄皇子(天智天皇)と共に蘇我氏を倒して「大化の改新」を推進し、後にその功績が讃えられ、天智天藤原が藤原氏がが与えられました。

しかし、藤原氏を授かったのは鎌足が晩年であったので鎌足は人生のほとんどを中臣氏で過ごしており、藤原氏としての始まりは息子の不比等から始まるのです。

藤原不比等とは

よく歴史の教科書などに登場するのは、父親の中臣鎌足や子孫の道長や頼道などです。

しかし、藤原氏の歴史上の最重要人物であり、藤原氏が朝廷で権力を持つようになったのも、不比等の才覚なのです。

若き頃の不比等は親族である中臣氏が「壬申の乱」に巻き込まれたために朝廷では冷遇され、大変苦労しましたが、自らの才覚で出世し、大納言や右大臣などの要職を歴任しました。

律令体制の確立や平城京遷都などにも関わり、政治家として手腕をふるいました。

そして、日本書紀の編纂にも関わったとされています。

政略結婚

不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせる事に成功しました。

そして宮子は聖武天皇を産み、後の天皇の祖父となり、さらに不比等の次女の光明子聖武天皇と結婚し、不比等の地位は盤石となりました。

藤原四家

不比等には四人の息子がおり、それぞれに家を分け「藤原南家」「藤原北家」「藤原式家」「藤原京家」と独立させ、それぞれが役職につき、9人の公卿のうちの4人を息子達が努め、藤原氏に権力を集中させたのです。

※この時代の役職は、特定一族への権力の集中を防ぐために、「一つの家につき一人」と定められていました、不比等はこの定めを逆手にとり、家を4分割しました。

まとめ

藤原氏の原点であり、今現在まで続く藤原氏の基礎を築いた不比等です。

11才の時に父である中臣鎌足が亡くなり、若き頃は苦労もしましたが、知略に長けた不比等はやがて頭角を表し、朝廷の政治を司る地位にまで上り詰めるのです。

自身の娘を天皇に嫁がせて血縁関係となり藤原氏の地位を盤石なものとしました。

4人の息子達も有能で「藤原四兄弟」として後の朝廷の政治を担っていくのです。

不比等藤原氏の基礎を築いたからこそ、藤原氏の子々孫々が現代に至るまで日本の政治に影響を及ぼすことが出来たのです。

不比等の死後、子孫達は繁栄や衰退もありましたが、藤原氏は今現代に至るまで日本の政治や文化に関わっているのです。

今回は藤原氏の原点であり、藤原氏の地位を確立した藤原不比等について紹介しました。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。🙏